2006年、京都大学・山中伸弥教授が世界に先駆けてマウスiPS細胞の作製に成功して20年、ついにこの画期的な研究が人を救うこととなる。だがこれまでには、事業の断念に追い込まれるほどの危機と、社会変革を目指す者たちの熱い支援があった。その軌跡を追う。
「死の待機」を終わらせる画期的製品の研究は苦難に陥った
2026年3月6日、厚生労働省はクオリプスが開発したiPS細胞由来心筋シート「リハート」の製造販売を今後7年間の有効性の検証などを条件に承認した。
この画期的な製品によって救われるのは、既存の治療法が尽き、心臓移植を受けるしかない重症心不全の患者たちだ。実を言うと日本では、脳死後に心臓を提供する「ドナー」の数が少ない。文化的に「死=心臓が止まること」と捉える人が多く、人口100万人あたりのドナー数(2022年)は、米国約44.5人、スペイン約46.0人、韓国約7.9人に対し、日本は0.8人にとどまる。勢い、重症心不全の患者が心臓移植手術を受けるまでの待機期間も長くなり、その平均は約5年。これが、待機中に亡くなる方の割合がほぼ4人に1人という悲劇的な事態を招いている。この「ドナー不足による時間切れ」という事態を打ち破るのが、弱り切った心臓をiPS細胞で甦らせる「リハート」だ。
ところが、この「偉大な一歩」は苦難の道のりでもあった。
10年、20年先の人類の未来を見抜く「慧眼の男」
皆さんは、原丈人氏(はら・じょうじ)という人物をご存じだろうか。
1952年生まれ、経歴は極めて異色だ。青年時代、中央アメリカ等で古代マヤ文明の考古学研究に没頭、しかし発掘調査を続けるためには莫大な資金が必要となるため「自らの研究資金は自らの手で稼ぎ出す」と決意、ビジネスの世界へ飛び込むべく、スタンフォード大学の大学院でエンジニアリングとビジネスを学び、当時から新興企業が集う街だったシリコンバレーに拠点を定めた。
そこで彼は、別の才能を開花させた。1984年にDEFTA Partnersを設立すると、まだ黎明期だったIT産業の可能性を察知し、最先端のテクノロジー企業や医療ベンチャーに投資していく。投資先は……
ボーランド(Borland)
1980年代~90年代初頭、世界のソフトウェア開発現場を席巻したプログラミングツール(Turbo Pascalなど)の開発企業。IT革命の土台となる「開発者たちの武器」を提供。
ピクチャーテル(PictureTel)
ZoomやTeamsといった「テレビ会議(ビデオ会議)システム」の世界的先駆者。
トレデックス(Tradex)
企業間(B2B)の電子商取引(EC)プラットフォームの草分け的存在。のちに世界有数のソフトウェア企業であるアリバ(Ariba)に超大型買収され、原はシリコンバレーのトップキャピタリストとして知名度を得た。
SCO(The Santa Cruz Operation)
初期のパソコン向けUNIX系OSで市場を牽引。
といった企業だった。なお、ここにFacebookやAmazonやX等の名が出てこないことには極めて重要な理由がある。原氏はエンタテインメントや、流行りのITサービス(BtoC)には、あえて一切投資しなかった、彼が投資の基準にしたのは、「10年後、20年後の人類社会の基盤(インフラ)になる本物の技術かどうか」だけだったのだ。

なぜ大学発の「世紀の技術」は投資家から見放されたのか?
話をリハートに戻したい。
iPS細胞は、理論上、身体のあらゆる細胞に変化できる「万能細胞」だ。ではなぜ大阪大学のチームは、数ある臓器のなかから「心臓」を選んだのか。
それは、心臓が「再生しない臓器」だから。皮膚や肝臓の細胞と違い、心筋細胞は一度傷ついて死んでしまうと元に戻らない。だから心疾患で細胞が壊死し、血液のポンプとしての機能が失われれば「移植」が必要となるが、前述の通り、日本ではドナーが足りない。
この挑戦を始めたのは、大阪大学医学部で心臓血管外科を率いていた澤芳樹教授(現・名誉教授)のチームだった。健康な人の心筋細胞から、無限に拍動する健康な細胞を作り出し、シート状にして弱った心臓に貼り付ければ、そこから新しい血管を作り出すための特殊な成分(サイトカインなどのタンパク質や成長因子)が持続的に分泌されるようになり、新たな血管の形成が促されるのだ。
そこで2017年、澤教授らはこれを厳格な品質管理のもとで生産し、全国の病院へ届けるための事業化を行おうと、スタートアップ「クオリプス(Cuorips)」を立ち上げた。
だが、ここで彼らは「死の谷(デスバレー)」に突入してしまう。
最先端の技術を実用化するには、莫大な開発資金が必要だ。特に医療の場合、基礎研究から臨床試験へと進む過程で巨額の資金を燃やし続けなければならない。実はここで、多くのスタートアップが倒れる。この現象こそ「死の谷(デスバレー)」と呼ばれるものだ。
クオリプスもまた、谷底に突き落とされた。創業時に予定されていた大阪大学ベンチャーキャピタル等からの投資が取りやめになってしまったのだ。
理由は筆者の推測となるが……開発コストが高額に過ぎ、リスクを単独で背負い込むには大きすぎたのかもしれない。また、出口(エグジット)に時間がかかり過ぎたのかもしれない。新しい医療技術、とりわけ誰も正解を知らないiPS細胞の実用化は事業計画の立てようがないのだ。あとは、事業を牽引する「経営のプロ」の不在も理由だったかもしれない。画期的な技術だけでは企業は成り立たない。知財の管理、グローバル企業との提携など、高度な経営手腕を持った人材は、求めれば簡単に得られるものではないのだ。
しかし、その3つをすべて持っている人物がいた。それが原丈人だった。

資本主義のバグを修正せよ。原丈人が提唱する「公益資本主義」の真髄
原は、米国でベンチャーキャピタルとして成功する中、この資本主義の矛盾を嫌というほど目にしてきた人物だった。そんな原が日本の政界との深いつながりも活かし、推進するのが「公益資本主義」だ。
現在の資本主義社会は、企業を「株主のもの」と定義する。経営陣が壮大なビジョンを描いても、株主は四半期ごとの短期的な利益で評価する。さらに、大株主は経営陣の人事権をも左右するから――わかりやすく言えば社長をクビにできる場合すらあるため、株主は「稼いだカネは配当や自社株買いに回せ」と強要もできてしまう。
その結果、何が起きるか。
真っ先に削られるのが、従業員への給与。すなわち貧富の差は、トランプの「大富豪」以上に暴力的に広がっていく。
同時に削られがちなのが、すぐには金にならない「長期的な研究開発(R&D)への投資」。
これでいいのか? 原は、この目先の利益だけを追うシステムは人類に絶望をもたらすと考え、実は歴代首相の経済政策に影響を与えてもいる。(実際、筆者は原氏が石破元首相など著名な政治家を会合に集め、資本主義の現状を分かりやすく解説している現場に立ち会った)
さて、そんな原がなぜクオリプスを救ったのか。読者は既に腑に落ちているはずだ。
既存の金融ルールでは、時間とリスクが大きすぎる研究もあるが、莫大な資金を「公益」に投じ続けてきた原には「これぞ絶対に絶やしてはならない人類の希望」に見えたに違いない。また、折しも原は大阪大学大学院医学系研究科の招聘教授も務めており、澤教授の研究の真価、そしてそれがどれほど多くの重症心不全患者を救うかという事実を、誰よりも深く理解できる立場にもあった。

人類の希望は自分が守る――誰も報じなかった「もう一つのドラマ」
では、原丈人は具体的にどのようにしてクオリプスを救ったのか。
まずはスタートアップ時点の資金だ。香港の「DEFTA Limited」から、澤教授らが会社を立ち上げ、研究を事業化に乗せるための初期資金を直接出資した。さらには事業を牽引する「経営陣」も創りあげた。日本の「DEFTA Capital」チームから事業立ち上げや知財・法務に精通した人材を投入。彼らが実務を担い、経営の屋台骨を構築したのだ。
つまり、原丈人は単なる「スポンサー」になったのではない。金も、人も、場所もすべて自前で用意し、澤教授らが「iPS心筋シートの研究・開発」という最大のミッションにのみ専念できる環境を創り上げたのだ。
この強烈な支援により、歯車は一気に回転を始める。2018年には、第一三共株式会社との戦略的事業提携(共同研究開発契約)を締結。そして2023年6月には、東京証券取引所グロース市場への株式上場(IPO)を果たし、事業基盤を盤石なものとした。そして迎えた、2026年3月6日――。
厚生労働省は、ついに『リハート』の製造販売を正式に承認した。
人類と病の戦いの裏には、そんなベンチャーキャピタリストの熱い志の物語があった。リハートの開発は新聞やTVでも報じられているが、この物語を報じるメディアはないため、Link X Journalが報じた。
